薩英戦争

薩英戦争から151年。

今日は、2014年9月25日です。

つまり2013年は、薩英戦争150年です。

1863年8月13日(西暦年)、

真夏の鹿児島湾(錦江湾)に

イギリス海軍の軍艦7隻が、やって来ました。

前年の1862年に「生麦事件」と

呼ばれる出来事が

起こりました。

生麦事件とは?

1862年8月に、

生麦村で発生した(現在神奈川県横浜市鶴見区)事件。

薩摩藩主の父、島津久光(前藩主島津斉彬の弟)が

江戸から京都へ帰る途中、

イギリス人男女4人が乗馬で

行列を横切ったため、

薩摩藩士がイギリス人を負傷させた事件。

イギリス人一人を殺害、2人を負傷させた。

幕府はイギリスに10万ポンドの賠償金を払ったが、

薩摩藩は払わず翌年イギリス艦隊の攻撃を受けた

(薩英戦争)

薩英戦争とは?

イギリスは、生麦事件の犯人引き渡しと

賠償金を求めて鹿児島までやって来ました。

犯人引き渡しと賠償金の支払いを

拒んだ薩摩藩に対し、

イギリス艦隊は

積極的な戦意はないものの

薩摩藩の船3隻を拿捕しました。

大砲

 

薩摩藩は、この船の拿捕を交戦行為と認識し、

城下に備えた砲台でイギリス艦隊を攻撃しました。

しかしイギリス艦隊が大砲の射程外に出ると、

イギリスの艦隊からの砲弾により、

28代薩摩藩藩主島津斉彬(なりあきら)によって

作られた工場群が焼失します。

薩摩藩にもイギリス艦隊にも

被害が出たことから、

薩摩藩はイギリスと講和を結び、

その後親密な関係となり、

幕府に秘密で

イギリスへ19名の留学生を派遣しました。

 

英国と薩摩の国力の差は計り知れないと

考えられた結果です。

 

薩摩藩などを中心として作られた

明治政府は、その後

1902年日英同盟を締結させます。

 

薩英戦争は、

近代日本への道筋をつける

きっかけとなった戦争でした。

          「薩英戦争とは?」 ここまで。

2013年10月に、

私は勝間塾月例会(福岡開催)に出席するために、

九州に高校修学旅行以後初めて

やって来ました。

2番目の目的は、

鹿児島にはまだ一度も行ったことが

なかったので、行くことでした。

そして九州新幹線にも

乗りたかったのです。

薩摩の近代工場だった

「尚古集成館」や

1658年に作られた

島津家別邸「仙巌園」を

見学するためでした。

「仙巌園」では、

 園内ガイドツアーを申込みました。

          園内ガイド → 所要時間30分(1日6回実施)

  料金:高校生以上は300円。小学生や中学生は無料。

28代藩主島津斉彬も、

この仙巌園を愛したそうです。

勝海舟、グラバー、

ロシア皇帝ニコライ2世も訪れたそうです。

(仙巌園パンフレットから)

仙巌園から見る桜島は

錦江湾を挟んで海の向こうに見え、

大変美しいです。

 

桜島の噴火は、

丁度裏側のようで

大きな爆発の際には、

煙のみ見えるそうです。

 

園内ガイドツアーの方からの

印象的なお話は、やはり来てみなければ

わからない海の近さと深さについてでした。

 

薩英戦争時、イギリス軍は、

錦江湾が深いために

艦艇から錨を下ろしても届かないために、

艦を停泊するのに苦労したそうです。

錦江湾は、北から湾奥部、湾中央部、湾口部の

3海域に分けられるそうです。

湾奥部と湾中央部に活火山である

桜島があります。

錦江湾の平均水深は、117mと比較的深く、

海岸付近の傾斜角が

大きい椀型の海底地形だそうです。

最大水深は206m。

 

桜島とこの仙巌園や

東洋最大の工場群「集成館」は、

非常に近いですので、

イギリスの軍艦が姿を現した時には、

さぞかし当時の薩摩の人々は

驚いたことでしょう。

欧米列強の植民地化をおそれ、

強く豊かな国づくりを目指した

島津斉彬の事業は、

その後も継承されていきます。

日本史の教科書に出てきた

「薩英戦争」に関わる

資料を見学することが

できました。

 

歴史の事件は、やはり

その土地に行き自分の目で見て

初めて理解できるのだと

感じました。

 

皆様も、

歴史散歩に

出かけてみて下さい。

 

 

 

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